フリーズドライ精子 −精子の室温保存法の開発

フリーズドライ精子から生まれたマウス


緒言
精子に関する研究は古くから行われており、1677年にレーウェンフックが精子を顕微鏡観察したのが最初だといわれている1)。その後1780年には新鮮な精子を雌の子宮内に注入する人工授精で、犬の妊娠、出産に成功した。これが哺乳類で交尾することなく生まれた初めての子供であろう。精子は卵子に比べ採取しやすく、また一回の採取で数億匹の精子が含まれているという材料の得やすさが研究を進める上で役に立ったのだと思われる2)。家畜においては人工授精が可能になると優良なオスの子孫を数多く作れることもあり、研究が盛んに行われた。しかし採取した直後の新鮮な精液を使っているだけでは使用できる期間が短く、多数のメスの繁殖周期に合わせることは不可能である。そのため精子の凍結保存に関する研究が精力的に行われ始めたが、解凍後に生きた精子を得ることにはなかなか成功しなかった。
 精子の凍結保存の最初の成功は人為的なミスによって偶然出来たものだった。1949年、ポルジらはニワトリ精子の凍結保存の実験を、当時知られていた凍結保護剤である果糖を使って実験していたが、解凍後に生存している精子はなかなか得られなかった。ところがあるとき研究室の誰かが果糖が入っているはずの試薬ビンにグリセリンを入れておいたため、間違えてグリセリンを精子の凍結液に加えてしまった。するとその精子は凍結融解後も生きていたのである3)。この発見によりグリセリンに凍害防止効果があることが初めて分かり、これを機に家畜や人の精子の凍結保存が次々と成功し、また人工授精の応用範囲が格段に広まった。現在は乳牛の99.9%、肉牛の100%が凍結精子を用いた人工授精によって生まれてきているのである4)。初期のころは温度を低温で維持することが難しく−80℃前後で精子を保存していたため、凍結してから数年で精子の生存率は著しく低下してしまい人工授精できなくなっていたが、その後液体窒素による−196℃での保存が可能になり(図1)、長期間保存しても人工授精できるようになった。おそらく氷晶の安定限界温度が−130℃にあり、液体窒素温度で保存した場合には、精子細胞内の微細氷晶が成長することなく安定しているために、精子も凍結中になんら傷害を受けないことによると考えられている4)。しかし自然に蒸発してなくなっていく液体窒素内での保存は、つねに補充をし続けなければならないこと、超低温のため取り扱いが厄介でしかも危険であること、維持費が高い事などの問題点がある。おまけにすぐ近くへの輸送でも、わずか1本の凍結精子のチューブを送るために大量のドライアイスもしくは高価な液体窒素充填容器をいつも使わなければならないため、そのコストは非常に高くなってしまう(図1)。
 もともと精子の凍結保存は、解凍後に人工授精で子供を作ることが目的であり、したがって精子は解凍後も元気な状態であることが不可欠であった。ところが1990年代になってマイクロマニピュレーターを用いた受精の研究(図2)から5)、精子を卵子内部に直接注入しても正常に受精が起こることがわかり(この方法を顕微受精あるいはICSIという)、その際に使用する精子は、必ずしも活発に動いている精子である必要はないことが明らかとなってきた。それどころか自然の環境では受精不可能な奇形精子6)や、物理的に細胞膜を破壊した死んだ精子7)であっても、直接卵子内へ注入すると正常な子供へ発育できることが分かってきた。精子の凍結に液体窒素を使っていた理由は精子にダメージを与えず生かしたまま保存させるためだったが、顕微授精技術によって死んでしまった精子からでも子供を作ることが可能になったことから、液体窒素を使わない安全で格安な方法で保存できる可能性が出てきたのである。

顕微授精(ICSI)による凍結保存の簡略化
 さて上記のことがちょうど明らかになり始めた1997年に私はハワイ大学へ留学した。ハワイ大学医学部生殖解剖学講座の柳町隆造教授は、哺乳類の受精現象に関してすでに40年以上も研究を続けている大家であり、受精に関する基礎的な現象はほとんど彼が発見したといっても過言ではない。また、日本からの留学生を数多く受け入れ、繁殖学や泌尿器科、産婦人科の先生のなかでハワイ大に留学したことがある人は数えきれない。私事になって恐縮だが、私が学生時代に読んで学んだ論文のほとんどが柳町先生の仕事だったことから、受精の研究者イコール柳町隆造、という刷り込みがなされてしまい、柳町先生のラボへ留学することは私の夢だったのである。
 その柳町研究室では、1995年にマウス卵子へ精子を直接注入する方法を開発し8)、世界で初めてマウスの顕微受精による子供を作ることに成功した。マウスは実験動物としてもっともポピュラーな動物だが、その卵子は非常に脆くて、顕微授精の成功に関してはヒトについで2番目の動物種だった。ヒトの場合、不妊治療として体外受精などの技術が発達していたおかげで、顕微授精もやりやすかったのである。
 私がハワイに留学して最初に行った実験は、「簡単な精子の凍結保存法の開発」というものだった。当時、人為的に細胞膜を破壊した精子でも顕微授精をすれば子供にすることが出来る7)、ということがわかったばかりのころで、まだ精子の保存には凍結保護剤および超低温が不可欠だと思われていた。しかし死んだ精子でも子供になるのであれば、もっと簡略化した方法でも可能なはずである。そこでどのくらいシンプルな保護剤ならいいのか、つまりどのくらい手を抜いた簡単な溶液で保存できるのかを調べてみた。顕微授精のテクニックを習得するのに約3ヶ月費やしてしまったが、その後すぐにこの実験に取り組んだ結果、結局精子の保存には、もっともシンプルな溶液としては単なる生理食塩水(0.9%の塩水)でも可能であることが明らかとなった(表1)9)。ただ、さすがにこれだけシンプルな溶液で精子を凍結保存すると核にもダメージがあるようで、解凍後にはすべての精子は死んでいたし、顕微授精しても出産率は新鮮な精子に比べて半分以下に落ちてしまった。しかし−15℃という家庭用冷凍冷蔵庫の温度で1年半保存しても、成績はまったく低下していない(図3)。つまり、精子の生死を問わなければかなりいい加減な方法でも保存できる、ということが分かったのである。核にダメージがなければいいのであれば、ひょっとして室温でも保存できるのではないか、という考えはここから生まれたのだ。

精子の室温保存の試み
 植物の種なら当然室温でも長期間保存できる。しかし植物の種と動物の細胞は同じ細胞でありながらまったく違うものであり、人類史上、精子が室温で長期間保存できた例は一度もない。まったく新しい試みであり、絶対不可能でやるだけ無駄な可能性もあった。でも新しい発見や発明は、誰もやったことがない、あるいは成功しなかったことに挑戦した場合のみ得られるものである。
 私たちは最初、死んだ精子からも子供を作れるということをオーバーに考えていたため、ホルマリンで保存してから子供を作る、というむちゃくちゃな実験を試みた。しかしさすがにホルマリンで保存した場合、顕微授精してもまったく受精させることは出来なかった。次にタンパク質の保存にも使われる硫酸アンモニウムで保存してみた。その結果、たしかに精子は受精に関しての機能を持ったまま保存されているらしく、卵子に注入した精子は卵子を活性化させることが出来た。ところが見た目は正常な前核を形成したにもかかわらず、それらの卵子は1つも発生出来なかった。タンパク質を保存しても、DNAが保存されていなければ子供にならないのだろう。
 そこで分子生物学では当たり前の手法である、DNAを保存するのに使う100%エタノールで精子を保存してみた。いいアイディアだと思ったのだが、エタノールはタンパク質などを固定し硬くしてしまう。おそらくそのために、卵子へ注入した精子は、細胞内にある酵素の機能が消失し、もはや卵子を活性化させることが出来なくなってしまった。そこで化学物質を使ってそれらの卵子を人為的に活性化し発生をスタートさせてみたところ、精子は正常な前核を形成した。これはいける、と思ったのだが、2細胞まで発育する胚すらほとんどなく、精子由来の染色体を調べてみたらボロボロになっていることがわかった。おそらくエタノール中でDNAは正しく保存されているが、精子の細胞膜やDNA結合タンパク質が固定され、DNAが精子頭部から出て行く際にちぎれてしまうなどの物理的なダメージを生じたのではないだろうか。しかし我々はあきらめず、条件を変えた実験を行ってみた。するとエタノールの濃度を100%から70%に下げ4℃で保存すると、1日保存した精子から子供を作ることに成功した10)。DNAはうまく保存され、しかも細胞のタンパク質などはまだ強く固定されていなかったのだろう。残念ながらこの方法では1日しか保存できなかったが、最適なエタノール濃度や、徐々にエタノール濃度を上げていってダメージを与えないような方法を見つけることで、より長期間、室温保存できるようになるかもしれない。

フリーズドライ精子の開発 
 私たちは失敗続きの水溶液中での室温保存方法には見切りをつけ、つぎに精子を乾燥して保存することを試みた。インスタントコーヒーの製法と同じフリーズドライをマウス精子に試みたのである。精子のフリーズドライは1949年に最初の報告がなされている。前出のアクシデントでグリセリンの効果を発見したポルジらは、ニワトリ精子のフリーズドライを試み、2時間後に水を加えて戻した結果、約50%の精子は生きていることを発見した。しかしこれらの精子が正常な受精能力を持っているのかどうかは調べなかった3)。続いて1954年にヒト精子11)、1957年にはウシ精子12)でフリーズドライによる保存が試みられたが、いずれも水を加えた後には生きた精子は存在していなかった。ところが同じく1957年、フリーズドライで保存したウサギ精子から人工授精で12匹の赤ちゃんが得られたという報告がでたのである13)。本当ならこれが世界初のフリーズドライ精子から子供が作れたことになるが、そんなすごい成果であるにもかかわらず今では手に入れることすら出来ない無名な雑誌に報告されたこと、およびこの実験の追試にはだれも成功しなかったこと(1961年には追試に成功しなかったという報告がNatureに掲載された14))などから、はたしてそれが本当の結果だったのか疑いの目で見られている。その後もいくつか研究が発表されたが、いずれもフリーズドライ精子から子供が作れる、という最終確認はなされていない15,16)。柳町研究室でも、1992年にハムスター及びヒト精子を用いてフリーズドライの研究を行った。それらの精子は水でもとに戻したあと顕微授精すれば卵子を活性化でき前核を形成したが、核にはダメージが生じていることがわかった17)。柳町先生はこの実験で精子のフリーズドライは不可能だと信じてしまい、その後私がやろうと言ってもなかなか許可してくれなかった。
 やがて顕微授精の技術が発達し、培養液や受精卵移植などの技術も成熟し、それまで不可能だと思われた実験も可能になってきた。機は熟したのである。私たちはフリーズドライ用の精子保存溶液が成功の鍵を握ると考えたが、とりあえず予備実験として胚の培養液を用いて試みてみた。その結果、なんと1回目の予備実験で子供を作ることに成功してしまったのである(この世界初のフリーズドライ精子から生まれたマウスはドライモンという名前になった。図4)。その後実験を進めるにつれて、フリーズドライ精子は室温で保存しても最長1ヶ月、4℃の冷蔵保存なら3ヶ月以上保存できることが明らかとなった(表2)18)。未発表データだが、4℃なら1年以上保存しても子供を作ることが可能であった。目標だった室温保存が最長で1ヶ月しか持たなかったことは残念だったが、この一連の実験は予備実験がそのまま本実験になったのであり、フリーズドライ用の精子保存液の開発が行われれば、さらに長期間保存できるようになると思われる。たとえ改善が難しかったとしても、室温で1ヶ月保存できるというメリットは非常に大きい。私たちはそのメリットを証明するため、柳町先生が海外へ長期出張のときフリーズドライにした精子をポケットに入れて運んでもらい、そして約3週間後に帰国してからそのフリーズドライ精子を用いて顕微授精を行い、多数のマウスを得ることに成功した。液体窒素やドライアイスを使わず、特別な保存容器も温度調節もせず、事実上の輸送費はゼロで精子を海外に輸送することが可能であることを始めて証明したのである(図5)。輸送後にフリーズドライ精子を冷蔵庫に移せば、さらに長期間保存できるだろう。予備実験の延長のようなデータだが、すでに実用化レベルの成果といってもいい成績である。その点が評価され、この私たちの仕事はNature biotechnologyのカバーを飾る論文となった(図6)。

技術の展開 
 フリーズドライ精子による受精率は非常に高いが、その後産子への発生率は通常の顕微授精の半分くらいしかなかった(表2)。そこでフリーズドライ精子を電子顕微鏡で観察したところ、精子頭部は完全に破壊されていることが分かった(図7)18)。精子自身の力による人工授精や体外受精方法では絶対に子供を作るのは不可能であり、マイクロマニピュレーターによる顕微授精が可能になった現在だからこそ使える技術である。その後の研究からフリーズドライ精子の保存には凍結保護剤無しの、たんなる胚の培養液を使っていたため、乾燥より凍結のほうで主なダメージが生じていることが分かった(未発表)。しかしグリセリンなどの凍結保護剤を加えると、今度はねばねばして乾燥することが難しくなってしまった。もし予備実験で最初から凍結保護剤を加えていたら、実験は失敗し今頃あきらめていただろう。研究には運も重要である。乾燥にも影響しない凍結保護剤を見つけ出すことが成功率改善の鍵となるだろう。余談だが、細胞として明らかに死んでいる精子であっても正常な生きた子供が作れるのだから、核は死んでいなかったことになる。顕微授精技術の発達によって、死という定義があいまいなものになってしまった。
 一方、フリーズドライ精子の細胞膜が完全に壊れてしまっていることが、その後の研究で思わぬ発見を導いた。外来遺伝子をこの精子と一緒にして顕微授精すると、遺伝子導入マウス(Tgマウス)を効率よく作ることが出来たのである19)。通常Tgマウスは、受精卵の中にある精子由来の核の中に外来遺伝子を注入して作り出される。しかしこの方法では特定の時期の受精卵が必要なこと(交尾あるいは体外受精に成功しなければならないし、前核がはっきり見える時期の受精卵しか利用できない)、精子由来の前核を見つけ出し(卵子由来の前核と区別しなければならない)、その中にDNAを微量注入すること(極細のピペットが必要で注入するDNAの大きさが限定される)などの制約がある。一方顕微授精でTgマウスを作る場合、未受精卵を使うこと(メスの排卵だけでよく、未受精卵は使用できる時間が長い)、卵子内のどこに注入してもよいこと(前核を探す必要がない)、精子を注入するとき一緒にDNAを入れるのでピペットのサイズが大きくDNAの大きさに制限がないことなどの利点が多い20)。その上Tgマウスの成功率は10%以上に達し、従来の前核注入の成績に勝るとも劣らないのである。残念ながら顕微授精という方法自体がまだ一般的でないことからこのTgマウス作成方法は広まっていないが、いずれフリーズドライ状態で室温保存した精子にDNAを混ぜて、インスタントTgマウスの素、というような形で販売されるようになるかもしれない。
 室温保存方法としてフリーズドライ方法は、習得するのが難しい顕微授精技術を必要とすること、まだ室温では最長1ヶ月しかもたなかったことから、我々はさらなる研究を行っている。フリーズドライで保存した後、水を加えたら生き返るような方法が見つかったら、精子自身の力で体外受精させることも可能になるだろう。実際イースト菌や酵母菌などはフリーズドライで生きたまま保存されているのだから、精子だって不可能ではないかもしれない。またフリーズドライ精子を作るためには高価な真空乾燥機などが必要だが、もし水溶液内で保存することができればさらに簡単になる。これらの研究はまだスタートしたばかりであり本当に可能かどうか分からないが、今後の成果が楽しみである。